裸のマハ

感想、妄想を書いておくところ

キム・ジヨンのこと

2016年に韓国で出版され大ベストセラーになった『82年生まれ、キム・ジヨン』。
日本しか知らない私でも息苦しさ、生きづらさが自分のもののようで衝撃だった。映画は観ていないので本の感想です。
(記事を書こうとしても下書きで満足しちゃってなかなか更新できず、最初の記事がいきなりこれだけど、まぁ、いいか)

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これはみんなの物語である

キム・ジヨンという主人公の名前は82年生まれで最も多い女児の名前だそうで。日本でいえば「山田太郎」とか「佐藤花子」とか、誰でもあって誰でもない、みたいな名前なのかも。そして意図的に、登場人物の容姿にはほとんど言及されないまますすむ。
だからキム・ジヨンの経験は普通で、よくある、決して大げさではない事柄なんだろうと思うし、実際日本でも同じようなことは毎日毎日起きている。作品内で起きたことは、私にも、友達にも、起きたかもしれない、いつ起きてもおかしくない事象なのだ。

作中で起きる本当にたくさんの小さな小さな出来事が、ジヨン氏の中に積み重なって、ある日憑依現象として表に現れる。これらの出来事やちょっとしたセリフの響き方は、これを読む私たち一人ひとり違ってくると思う。個々の考え方やこれまでの経験によると思うから(作品を己に引き付けて読める工夫がなされているので)、以下は私が特に うわぁっ て思ったところで、別の人はまた違った部分で、涙したり、悔しくなったりしてるんだろうと思う。

 

性別によって負わされるもの

作中の「生きづらさ」は性別によるものだ。「その人だから」ではない。男だから、女だから起きていることだ(性別は男女に二分できないものだけれど、ここでは置いておく)。

例えば、就職での格差。ジヨン氏は就活で相当の苦労をする。書類選考もまともに通らず、面接ではセクハラまがいの質問にあう。就職した会社でも、長期プロジェクトは男性同期に任され、面倒なクライアントは女性に振り分けられていた。給料も違った。

続けられない社員が続けられるための条件を整備するより、続けられる社員を育てる方が効率的だというのが社長判断だったのだ。(中略)ずっと会社に残っていっぱい働く男性たちには、やる気をなくさせるような辛い仕事はあえてさせないのだった。――117頁

東京医科大学の受験問題で、日本も大差ないんだ、見えてなかっただけで、と思ったよね。最近履歴書の性別欄をなくそうかって動きがあるけど、反対する人は「性別」で何かを決めているからなんだろうか。受付は女性じゃなきゃ、とか。女性は結婚や出産で辞めたり制約ができるからなぁ、とか。
今やいっぱい働けない理由は出産や子育てだけではない。男性でも介護離職が増えているというし、居住地や、障がいや、それこそ多種多様な理由で「続けられない」人が辞めなくてはいけないなんて状況がいつまで続くんだろう。こういう社会は男性をも働きづらくしているのではないか。男性だからいっぱい働かなくてはいけない、なんてこともないのに。
日本でも(女性に限らず)制約のあるひとが再就職するのはとても大変だ。制約があるとどうしても派遣や、パートなど非正規の職になりがちで、そういう人を安く雇う、そしてコロナみたいに危機があると真っ先に切る、つらい社会だなぁと思う。

 

セクハラもそう。ジヨン氏が中学校のとき、教室から見える空き地に露出狂が出た。このとき叱られ、反省文を書かされたのは見ていた女生徒たちの方だった。ジヨン氏も塾の帰りに男子生徒に後をつけられ、恐怖する。このとき助けてくれたバスの女性にタクシーを呼べずに謝る父に女性は言う、「タクシーの方が怖いですよ」。帰宅後父は危険を避けられないお前が悪い、とジヨン氏を叱る……。
日本でも痴漢にあったとき、被害者を責めたり加害者を擁護する声が消えない。男性だって痴漢やセクハラにあうことがあるけど、そういうときも同じように被害者を責めるんだろうか。スーツなんか着てるからだ、とか。
女性であるだけで触られたり、盗撮されたり、笑えもしない下ネタを言われたり、そういう危険度がぐっと跳ね上がる。交通機関でも、学校でも、会社でも。男性はタクシーに乗るとき、運転手に「いい身分だな」みたいな態度を取られたり、運転手に何かされるんじゃないか、なんて危機感を持って乗ったことがあるだろうか。

「男性であること」を責めているわけではない

こういうフェミニズム的な文章や事象に対して、「男が悪いのか」とか「わざわざ知りたくない」とか、自分が責められていると誤解して攻撃したり「これだからフェミは」みたいな空気になることがあるけど、はっきり言っておこう。フェミニズムの言説の多くは男性一般を責めているのではない(と思う)。
社会の仕組みを、その構造を、指摘に逆切れしたり女性を下に見たり”してしまう”そういう人(女性を下に見る女性もいる 某女性議員とかね)を生んでいる環境をこそ責めているのだ(もちろん加害者や、構造を理解してなお、性差別に加担する人、利用する人は責められるべきだと思う)。「男性であること」で何か言うなら、それもまた性差別だ。

「女性であること」で負う大変さの一方で、「男性であること」であるつらさも、あるだろう。女性は優遇されている、男だって大変なんだ、という人にこそこの本を読んでほしい、と思うのだけど。女性が生きづらい社会はまた、男性も生きづらいだろうと思う。

余談だが男性であるがゆえのつらさの半分くらいは家父長制の家制度のつらさではないかと思っている。「男だから」強くなきゃ、ちゃんと働かなきゃ、家を継がなきゃ、家族を持って一人前だ……(この「男だから」「長男だから」「家族だから」を鬼滅の刃からすごく感じるのだがこれはまた別の話)。
だから家制度を守ろうとする自民党改憲案はこの時代に、まだ家制度に縛られたいのかとぞっとするんだけど。何?信仰?選択的夫婦別姓だって、家制度の崩壊がそんなに怖いんだろうか。

いつになるかわからないけど、日本でも夫婦別姓が認められたとき、子どもの姓が夫側の姓に偏るような慣習ができないことを祈る。

 

子どもを産むということ

これがひっかかったのは子どもを持つことにあまり積極的になれない自分の状況があるからだと思う。だからより個人的なところかもしれない。妊娠中にジヨン氏が地下鉄に乗るシーンが特につらかった。

おばさんの隣の、大学のマーク入りのジャンパーを着た女の子がうんざり顔で席を蹴って立ち上がった。そしてキム・ジヨン氏の肩をぐいっと押しのけて向こうへ行きながら、聞こえよがしに言った。
「そんな腹になるまで地下鉄に乗って働くような人が、何で子どもなんか産むのさ」――133頁

作中には女の子よりも男の子を期待する周囲も描かれるが、その点は日本はまだましかなぁと思う。でもこの「自己責任」は日本でも、妊娠中も育児の間もずっとつきまとう感じがする。大変なことも、お金がかかるのも、わかっていたことだろう、つらいつらいと嘆くくらいなら、なぜ産んだんだ、と。この大学生もまた、近い未来に同じような状況になる可能性があって、そのとき自分の言ったセリフが彼女自身を傷つけることにならないか、とも思う。

加えて思うのは子どもを持つということの責任が、女性に傾きがちでは?ということ。当たり前だが責任は男女半々のはずなのに、シングルファザーよりマザーが圧倒的に多いし、養育費すら払わない人もいるとか聞くと本当に何なの、と思う。

現在のところ、私自身がこの「自己責任」の声に勝てる気がしない。なんとかなるよ、とか、大変だけど子どもはかわいいから、とか言う人はいくらでもいるけど、じゃぁ私に何かあったとき、責任は取ってくれるんですか?と内心毒づきながら曖昧に笑うしかない。その大変な子育てに耐えられる保証はないし、なんとかならなかったら、結局母親の、「わたしの」責任になるんじゃないのか。私はうまくやる自信がない。
少子化の原因はこういうところにもあるんじゃないの?という気もする。若年層の貧困もあるだろうけど、対策として出産一時金、とか焼け石に水では。もらえるのが2000万とかならわかる、30万やそこらで偉そうにすんなよ、と。

 

未来への希望

この作品を読んで驚いたことのひとつは、韓国の制度の変化が日本以上に急速だったということ(特に、女性が教育を受ける権利は大きく変わった)。そして作品が出て、韓国でもMeToo運動が盛り上がり、社会は少しずつ変わっているのかもしれない。
この作品は強烈に、「もうこういうのいいかげんやめようよ」と思わせてくれる本だと思う。ジェンダーとかフェミニズムについて考えてるとよく たいして変わってないんだな、と思う。ああ、まだここか、これしか進んでないのか、と絶望しかかる。だけど、もう落ち込んで、諦めるのはやめよう、差別を再生産するのも、許すのも過去のことにしよう、と思わせてくれた。勇気のような、危機感のような。

知人の10歳の女の子が、次に生まれるときも女の子がいいな、と言っていた。ひとまずこの子は、女の子であるつらさや、悲しみや、悔しさを(その楽しさ、嬉しさ以上には)感じずに来れてるんだ。未来は、この子が20年後も30年後も、また女の子がいいって言える社会だろうか。そうなってほしい、と思った。

日本は変われるのかな。毎日のように、悔しいし許せないむかつく、この作品に出てくるような出来事が起きているけれど。ちょっとした誰かの言動にひっかかったとき、その場では言えなくても、後からでも「今のおかしくない?」って言いたい。今まで黙っていた場面で、時々は「私はこう思う」って言いたい。理不尽なことがあったとき、怒っていい。少なくとも私になんとかできる狭い世界では。そのくらいのことは、私にもできる。