裸のマハ

感想、妄想を書いておくところ

『おもひでぽろぽろ』―― 高畑勲の「君たちはどう生きるか」?

ジブリの「おもひでぽろぽろ」を観た。高畑勲が監督し、91年に公開された映画だ。
こんなにつらい気持ちになる映画とは思ってなかったので、観終わって夫と顔を見合わせて「え……?つらいんだけど?」と言ってしまった。

宮崎駿が、少年少女の希望や夢を応援し、基本的に「生きること」を肯定する監督とすると、高畑勲はこんなにも違うものかと。諦め、理不尽、ままならない人の世を、それでも生きる、という後ろ向きの人生観とでも言おうか。(感覚的にかなりインド仏教っぽいと感じた。逃れられない四苦八苦を受け入れて人生を全うしようとする点で。)

 

さて映画だ。乱暴に一言でまとめるなら「この世の居心地の悪さをどう処理して生きていくのか」という話として受け止めた。この「生きづらさ」にはフェミニズムや家父長制の側面も含まれている。
え?そんな映画だった?という人も多そうだ。映画感想サイトとか見たけど、ほほえましい、懐かしい、とかの感想もあり……。でもこの映画をどう受け取るかで、その人がどう生きているかわかるというか、ある意味本当に恐ろしい映画でもある。と思う。繊細と言うか、めんどくさい性格と言うか呼び方はともかく。

ネタバレも何も、観てからじゃないと何言ってるかわかんないと思います。勢いのまま、雑だし長いです。

 

この世の居心地の悪さ

全体的に子ども時代のシーンは見ていて居心地が悪い。あれは、タエ子の中でなんとなく気持ちが悪い、納得がいかない、言語化できていないもやもやした過去の記憶なんだと思う。そういうのほど大人になるまで忘れさせてくれないのだ、脳は。昔の失敗や子どものころ何だかわからなかったのに残っている記憶は、後悔や理不尽、羞恥と結びついている。

高畑監督は、このもやもやを、そのときの状況そのまま、こちらに提示してくる。過度な演出がなくあくまでリアルに。リアルすぎるから、もやもやを感じる人と、感じない人が出るくらいに。

 

いちばん印象的なのはパイナップルかな。宮崎駿が、多くの作品で食べ物を本当においしそうに描く一方で、この映画の食べ物は基本的においしくない、というのがすごい。ナマスをはさんだ給食のパン(捨てる)、美味しくはないが2杯飲む脱脂粉乳、嫌いな玉ねぎ(捨てる)……。
食べ方もわからないくらい珍しくて、南国の、しかも千疋屋の、いい匂いのするパイナップル。期待いっぱいで食べる家族の微妙な顔。無言。気まずいことこの上ない。無理して「おいしい」と言うタエ子……つらい。末っ子らしく、子どもらしく、ふるまったほうがいい?という……(捨てられたんだろうな、残りのパイナップルも。)

 

それから「気まずい」のは何といっても生理をからかう男子たちだ。スカートめくり、しかも「お前、生理だろ」とか言うの……絶句するわ。性暴力。犯罪ですよ。男子も女子も生理を汚いものだととらえるその女性嫌悪、見ていてつらい(タエ子も体育で休んだら生理だと思われる!って、わかる、わかるけどさぁ……)。
しかも、大人な対応、と言わんばかりの「子どもよねぇ」と笑顔でかわす友達。怒っていい、傷ついていいはずの言動に対して、なぜ被害者の側が寛大に?許す必要があるんだよ。あーーむかつく。痴漢とかセクハラとか、明確な性犯罪に対して、「まぁまぁそのくらいで怒んなくても」「減るもんじゃないし」。被害者が怒ることや傷つくことさえ認めないのか。暴力の容認だ。これはそういうもやもやの記憶なんだ。

 

こんな感じで、まじで思い出の一個一個がつらい。知らん男子と相合傘の落書きでからかわれるのも(こういう異性愛前提、恋愛至上主義感がまじで苦手だ)、家父長制どまんなかのお父さんと、もう諦めの境地って感じのお母さんも。中華料理屋に行こうとするとこなんか……姉から投げつけられるエナメルのバッグ。ちょっと甘えたい、タエ子の気持ちもわかってるくせに、そうはさせない父、素直に「やっぱり行く!」と決めたタエ子に待つのは怒鳴り声と平手打ちですよ。家族にさえ断絶を感じる絶望。やばい。つらい。諦めさせられた児童劇団も。終盤のあべくんのエピソードも(先生がクラス全員と握手させるのも拷問か?って感じだし、好きだからとかそれが相手を傷つける理由になるかよ、無意識にケアを要求するっていうか、、、「有害な男らしさ」じゃない?)。

見ててそう感じない、つらくない人もいるでしょう。でもタエ子が思い出すのはさ、あえてこの思い出をこの形で監督が描くのはなんでかってことなのよ。こういう小さい出来事で傷ついてる人が、もやもやしたタエ子がいたんだよ……。この世の中を居心地が悪いと思って生きてる人がいるって、ただそれを提示してくれる高畑勲
つらい理不尽な思い出の数々。とかくこの世は生きにくい。人生に希望があるんだろうか、と思わせるジブリがあろうとは。

(幸せっぽいシーンもあるにはある。ヒロタくんの、晴れと曇りと雨とどれが好き?あ、おんなじだ のシーンとか。他者との共感とか共通点を見つけた喜びかなとは思うが、好きな天気で他者と分かり合えた!と感動できるのは子どもだからこそで、逆説的に人と人はわかりあえないんじゃないか?わかりあえるのは表層だけで、結局は幻なのでは?と思ってしまう……うがちすぎと思うがヒロタくんはどの答えが返ってきてもおんなじだ!って言ったかもしれない。あべくんもそうだが、他者の内面は圧倒的にわからないものなのだ)

 

理不尽への対処

ポイントは分数の割り算。なんでかわかんないけどそうなってる、子ども(あるいは女性、そして我々)にとっての理不尽なこと=分数の割り算。
家父長制、ミソジニー、差別、社会の格差。期待はハズレ、人生はうまくいかない、人(家族すら)とわかりあえない孤独、生老病死、四苦八苦、逃れられない人の業。それが分数の割り算……。
タエ子はあの図を書いて、惜しいとこまでいくのよ。「それはそういうものだから」で納得できるタイプではなくて、ひっかかるタイプなんだよね。でも、最後までは突き詰めない。それがタエ子。もやもやするけど、言語化して整理したり、納得するまで考え続けたりはしない……それがタエ子……。それがタエ子の処世術。

気づかないで生きていける。気づかないフリをする。なんかつらいけど、「明日があるさ」で乗り越える。現実の捉え方・生き方、いろいろありますよね。どれが正しいとかはないよ。だけど、対象を見ることなしには、その理不尽や不公平はなくならない。それを生む構造は再生産されて、また自分や別の誰かがもやもやして、傷ついて、この世は生きにくいままなんだ。これは高畑勲の「君たちはどう生きるか」かもしれない。

 

世界の見え方

映画のラストは、はっきりはしていない。タエ子はトシオと結婚するという解釈もできるし、ただ東京に帰るのをちょっと遅らせただけかもしれない。でもこう、なんとなく未来は結婚すんの?って感じじゃん、また相合傘持って追っかけてくるじゃん、過去の自分たちが。(ここも、過去の自分との決別と捉える向きもあるようだが、個人的には過去の自分から逃れることはできない、と感じた。)

パイナップルは、タエ子にとっての「田舎」と相似だ。南国のフルーツおいしいだろう、田舎の生活って素敵よね、というあこがれ。でも期待は裏切られるんだよ。パイナップル、甘くなかったでしょ。ここからタエ子の、あれ……なんか、思ってたのとちがうかも、というパイナップルと同じ失望と妥協が待っている気がする。いい匂いしたのになぁ。田舎の家族制度と家父長制(結婚したら確実に「子はまだか」と言われそう)と、都心―地方の格差のなかで、微妙な顔で「おいしい」「しあわせ」って言うんだ……

田舎の生活が不幸とは言わないけれど(何なら私の出身は高瀬から車で30分くらいだ)、タエ子はひっかかる性格でしょう。そのうえで、タエ子は過去の思い出の何がどうしてもやついてるのか、はっきり突き詰める性格じゃない。理由は、家父長制や、家族制度や、人々の幻想や、自分の中にある差別心やそういうものなんだ、たぶん。でも言語化しないから、見つめてないから、またもやもやを繰り返すし、「生きづらさ」から逃げられないかもしれない。一方で、トシオがそれらを明るく解釈してくれることで、タエ子は現実をとらえなおして生きられるのかもしれないんだけど……

ところで、タエ子が山形について車から降りたとき、紅花畑ですごい笑顔でこっち見てる人、めっちゃ怖くないですか。ホラー映画かと思った。あそこは確実に「リアル」じゃなくて、タエ子の「歓迎されてる」(幻想)の表出と思う。田舎の畑仕事中のあの世代の人が、よそ者に対してあんなに固まって笑顔を向けることはないし、だからもうヒトじゃないみたいで怖い。でも、タエ子には、そう見えたんだよね。いや怖いけど。

 

 

わかったでしょう。わたしはこの世で生きるのにあんまり向いてないことが!この映画がどう見えるかというのが、この世がどう見えてるか、ってことだから。自分はこういう捉え方をしてしまう人間なんだと、なんならこういう生き方しかできないんだと、突きつけられましたよ監督に。

高畑勲監督の人生観っていうか、火垂るの墓のあと、これ……まじで?で、最終的に「かぐや姫の物語」に行きつくのか。いや、監督のことよくわからないけど、でもとりあえずこの映画では理不尽や気まずさやもやもやを、真正面から見てる。生きてることのつらさや絶望の解像度……。宮崎駿とは違う、どっちがいいとかじゃない、でもこんなに違う!っていう。人生キラキラばかりじゃない、汚い・めんどくさい・マイナス面も描くジブリっていうか……91年なんて、アニメは子どものもの、っていう時代だったろうに、完全に大人に向けて生きるつらさを突き付けてくるとは。見終えてしばらく、こんな風にぐるぐる考えてしまう、とんでもない映画でした。

ていねいな暮らし考

「ていねいな暮らし」って何。と思ったので書く。テレビで『リトル・フォレスト』という映画をやってたせいかもしれない。横目で見てたからちゃんと見てない、ごめん。あと『土を喰らう十二か月』という映画も観たな。

現時点での結論としては、面倒を引き受けるってことかなと思う。

まず、ていねいな暮らしってやつは時間に余裕がないとできない。だいたい現代で普通に働いていたら無理だ。そして楽しむには(特に都市部では)、金がかかる。気に入った食器やインテリアをそろえる、なんてのも時間と金が必要だし、食にこだわって自家製の漬物、とかも意外と大変だ。大量に漬けるには道具もいるし、手間も時間もけっこうかかる、と思う(漬物でも炊飯でも思うけど、大量に作らないと出ない味ってある)。
都市部においては、時間と心と金銭に余裕のある人間が、楽しむために「あえて」面倒を引き受けてやること、という感じがする。大抵のものは金を出せば近くで、あるいはネットでも買える。買わないで手間をかけるのは面倒を「楽しみたいから」だ。だから「ていねいな暮らし」ができないからといって気に病むことはない。

 

都市部で、と書いたのは、楽しんでない「ていねいな暮らし」があると思うからだ。ていねいな暮らしと田舎暮らしは結びつきやすい。「ていねいな暮らし」の大本にあるのはモノがない時代の田舎の暮らしなのかもしれない、とも思う。金はない、売ってない、材料と手間暇をかける自分の体はある。
身の回りにある資源はすべて無駄にできない。畑でも山でも、労力をかけて作ったり採ってきたものは、無駄なく使いたい。だから干す、漬ける、保存しておいて何も取れない冬に備える。新しいものはなかなか買えないから、古いものを大事に、ときに修理して手をかけて、使う。布もそう。継いで刺繍して、作り変えて、使う。
でもそれは楽しむというより、知恵をしぼり、面倒を引き受けないと生きていけないからだ。もちろん、手間をかければ美味しくなるし、愛着もわく。多くの場面では楽しむ余裕なんてほんのちょっとで、必要だから、とか仕方なく、やってきたのかな、とも思う。お金があるなら便利なものを買いたい、本当はもっとゆっくり休んだり眠ったりしたいと思いながら。
最近では田舎でも何でも手に入るようになったので、楽しめる範囲内でやってるような気がするけど。

 

なんかその、ファッション的な「ていねいな暮らし」にちょっとイラつくのは、やりたくてやってない苦労を、外や上から眺めて感銘を受けて、マネして、楽しんでいるように感じるからなのかも。昔の暮らしや田舎の暮らしにあこがれるのはいい。でもその、資源を大切に使うためにやっていること、という部分が消えて、完全に楽しみのためになったとき、モヤモヤしてしまうのかな。
例えばだけど、素敵な食器やインテリアでそろえられた部屋は、家にあるまだ使えるものを気に入らないからと捨てた上に成り立ってるわけで。なんというか、都市的な大量消費の暮らしとは基本的に性格が違うよね。服もワンシーズンで買い替えたりとかさ。現代ではモノを無駄にするほうが安く済む、っていう側面もあると思うのだけど。あるいはそういう大量に買っては捨てる、そのためのお金を稼ぐ忙しい生活の裏返しに「ていねいな生活」を目指したくなるのか。
ファッションじゃなく、モノや資源を無駄にしないための「ていねいな暮らし」なら私はイラつかないのかもしれない。それはたぶんあんまりカッコよくなくて、なんならケチで貧乏くさい生活に近いから……。そう思ってるから、映画になった「ていねいな暮らし」がきれいすぎて、お金がかかってて、こんなのウソだ!って思ってモヤモヤするんだなー。理想だからあれは!!

もはや田舎だから環境にいい暮らしなんてことはないんだけどさ。田舎のほうが野菜のクズとかばんばん捨てるしね……。エコな生活にはお金がかかるよね。自分も手間を楽しむ生活?活動?もするけど、自覚だけはしておこう、と思います。基本的には雑な生活を送ってるんだから、楽しみのために何かをいたずらに無駄にはしないように……。

キム・ジヨンのこと

2016年に韓国で出版され大ベストセラーになった『82年生まれ、キム・ジヨン』。
日本しか知らない私でも息苦しさ、生きづらさが自分のもののようで衝撃だった。映画は観ていないので本の感想です。
(記事を書こうとしても下書きで満足しちゃってなかなか更新できず、最初の記事がいきなりこれだけど、まぁ、いいか)

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これはみんなの物語である

キム・ジヨンという主人公の名前は82年生まれで最も多い女児の名前だそうで。日本でいえば「山田太郎」とか「佐藤花子」とか、誰でもあって誰でもない、みたいな名前なのかも。そして意図的に、登場人物の容姿にはほとんど言及されないまますすむ。
だからキム・ジヨンの経験は普通で、よくある、決して大げさではない事柄なんだろうと思うし、実際日本でも同じようなことは毎日毎日起きている。作品内で起きたことは、私にも、友達にも、起きたかもしれない、いつ起きてもおかしくない事象なのだ。

作中で起きる本当にたくさんの小さな小さな出来事が、ジヨン氏の中に積み重なって、ある日憑依現象として表に現れる。これらの出来事やちょっとしたセリフの響き方は、これを読む私たち一人ひとり違ってくると思う。個々の考え方やこれまでの経験によると思うから(作品を己に引き付けて読める工夫がなされているので)、以下は私が特に うわぁっ て思ったところで、別の人はまた違った部分で、涙したり、悔しくなったりしてるんだろうと思う。

 

性別によって負わされるもの

作中の「生きづらさ」は性別によるものだ。「その人だから」ではない。男だから、女だから起きていることだ(性別は男女に二分できないものだけれど、ここでは置いておく)。

例えば、就職での格差。ジヨン氏は就活で相当の苦労をする。書類選考もまともに通らず、面接ではセクハラまがいの質問にあう。就職した会社でも、長期プロジェクトは男性同期に任され、面倒なクライアントは女性に振り分けられていた。給料も違った。

続けられない社員が続けられるための条件を整備するより、続けられる社員を育てる方が効率的だというのが社長判断だったのだ。(中略)ずっと会社に残っていっぱい働く男性たちには、やる気をなくさせるような辛い仕事はあえてさせないのだった。――117頁

東京医科大学の受験問題で、日本も大差ないんだ、見えてなかっただけで、と思ったよね。最近履歴書の性別欄をなくそうかって動きがあるけど、反対する人は「性別」で何かを決めているからなんだろうか。受付は女性じゃなきゃ、とか。女性は結婚や出産で辞めたり制約ができるからなぁ、とか。
今やいっぱい働けない理由は出産や子育てだけではない。男性でも介護離職が増えているというし、居住地や、障がいや、それこそ多種多様な理由で「続けられない」人が辞めなくてはいけないなんて状況がいつまで続くんだろう。こういう社会は男性をも働きづらくしているのではないか。男性だからいっぱい働かなくてはいけない、なんてこともないのに。
日本でも(女性に限らず)制約のあるひとが再就職するのはとても大変だ。制約があるとどうしても派遣や、パートなど非正規の職になりがちで、そういう人を安く雇う、そしてコロナみたいに危機があると真っ先に切る、つらい社会だなぁと思う。

 

セクハラもそう。ジヨン氏が中学校のとき、教室から見える空き地に露出狂が出た。このとき叱られ、反省文を書かされたのは見ていた女生徒たちの方だった。ジヨン氏も塾の帰りに男子生徒に後をつけられ、恐怖する。このとき助けてくれたバスの女性にタクシーを呼べずに謝る父に女性は言う、「タクシーの方が怖いですよ」。帰宅後父は危険を避けられないお前が悪い、とジヨン氏を叱る……。
日本でも痴漢にあったとき、被害者を責めたり加害者を擁護する声が消えない。男性だって痴漢やセクハラにあうことがあるけど、そういうときも同じように被害者を責めるんだろうか。スーツなんか着てるからだ、とか。
女性であるだけで触られたり、盗撮されたり、笑えもしない下ネタを言われたり、そういう危険度がぐっと跳ね上がる。交通機関でも、学校でも、会社でも。男性はタクシーに乗るとき、運転手に「いい身分だな」みたいな態度を取られたり、運転手に何かされるんじゃないか、なんて危機感を持って乗ったことがあるだろうか。

「男性であること」を責めているわけではない

こういうフェミニズム的な文章や事象に対して、「男が悪いのか」とか「わざわざ知りたくない」とか、自分が責められていると誤解して攻撃したり「これだからフェミは」みたいな空気になることがあるけど、はっきり言っておこう。フェミニズムの言説の多くは男性一般を責めているのではない(と思う)。
社会の仕組みを、その構造を、指摘に逆切れしたり女性を下に見たり”してしまう”そういう人(女性を下に見る女性もいる 某女性議員とかね)を生んでいる環境をこそ責めているのだ(もちろん加害者や、構造を理解してなお、性差別に加担する人、利用する人は責められるべきだと思う)。「男性であること」で何か言うなら、それもまた性差別だ。

「女性であること」で負う大変さの一方で、「男性であること」であるつらさも、あるだろう。女性は優遇されている、男だって大変なんだ、という人にこそこの本を読んでほしい、と思うのだけど。女性が生きづらい社会はまた、男性も生きづらいだろうと思う。

余談だが男性であるがゆえのつらさの半分くらいは家父長制の家制度のつらさではないかと思っている。「男だから」強くなきゃ、ちゃんと働かなきゃ、家を継がなきゃ、家族を持って一人前だ……(この「男だから」「長男だから」「家族だから」を鬼滅の刃からすごく感じるのだがこれはまた別の話)。
だから家制度を守ろうとする自民党改憲案はこの時代に、まだ家制度に縛られたいのかとぞっとするんだけど。何?信仰?選択的夫婦別姓だって、家制度の崩壊がそんなに怖いんだろうか。

いつになるかわからないけど、日本でも夫婦別姓が認められたとき、子どもの姓が夫側の姓に偏るような慣習ができないことを祈る。

 

子どもを産むということ

これがひっかかったのは子どもを持つことにあまり積極的になれない自分の状況があるからだと思う。だからより個人的なところかもしれない。妊娠中にジヨン氏が地下鉄に乗るシーンが特につらかった。

おばさんの隣の、大学のマーク入りのジャンパーを着た女の子がうんざり顔で席を蹴って立ち上がった。そしてキム・ジヨン氏の肩をぐいっと押しのけて向こうへ行きながら、聞こえよがしに言った。
「そんな腹になるまで地下鉄に乗って働くような人が、何で子どもなんか産むのさ」――133頁

作中には女の子よりも男の子を期待する周囲も描かれるが、その点は日本はまだましかなぁと思う。でもこの「自己責任」は日本でも、妊娠中も育児の間もずっとつきまとう感じがする。大変なことも、お金がかかるのも、わかっていたことだろう、つらいつらいと嘆くくらいなら、なぜ産んだんだ、と。この大学生もまた、近い未来に同じような状況になる可能性があって、そのとき自分の言ったセリフが彼女自身を傷つけることにならないか、とも思う。

加えて思うのは子どもを持つということの責任が、女性に傾きがちでは?ということ。当たり前だが責任は男女半々のはずなのに、シングルファザーよりマザーが圧倒的に多いし、養育費すら払わない人もいるとか聞くと本当に何なの、と思う。

現在のところ、私自身がこの「自己責任」の声に勝てる気がしない。なんとかなるよ、とか、大変だけど子どもはかわいいから、とか言う人はいくらでもいるけど、じゃぁ私に何かあったとき、責任は取ってくれるんですか?と内心毒づきながら曖昧に笑うしかない。その大変な子育てに耐えられる保証はないし、なんとかならなかったら、結局母親の、「わたしの」責任になるんじゃないのか。私はうまくやる自信がない。
少子化の原因はこういうところにもあるんじゃないの?という気もする。若年層の貧困もあるだろうけど、対策として出産一時金、とか焼け石に水では。もらえるのが2000万とかならわかる、30万やそこらで偉そうにすんなよ、と。

 

未来への希望

この作品を読んで驚いたことのひとつは、韓国の制度の変化が日本以上に急速だったということ(特に、女性が教育を受ける権利は大きく変わった)。そして作品が出て、韓国でもMeToo運動が盛り上がり、社会は少しずつ変わっているのかもしれない。
この作品は強烈に、「もうこういうのいいかげんやめようよ」と思わせてくれる本だと思う。ジェンダーとかフェミニズムについて考えてるとよく たいして変わってないんだな、と思う。ああ、まだここか、これしか進んでないのか、と絶望しかかる。だけど、もう落ち込んで、諦めるのはやめよう、差別を再生産するのも、許すのも過去のことにしよう、と思わせてくれた。勇気のような、危機感のような。

知人の10歳の女の子が、次に生まれるときも女の子がいいな、と言っていた。ひとまずこの子は、女の子であるつらさや、悲しみや、悔しさを(その楽しさ、嬉しさ以上には)感じずに来れてるんだ。未来は、この子が20年後も30年後も、また女の子がいいって言える社会だろうか。そうなってほしい、と思った。

日本は変われるのかな。毎日のように、悔しいし許せないむかつく、この作品に出てくるような出来事が起きているけれど。ちょっとした誰かの言動にひっかかったとき、その場では言えなくても、後からでも「今のおかしくない?」って言いたい。今まで黙っていた場面で、時々は「私はこう思う」って言いたい。理不尽なことがあったとき、怒っていい。少なくとも私になんとかできる狭い世界では。そのくらいのことは、私にもできる。

ブログやってみることにした

ツイッターは長文に向かないし、フェイスブックじゃ匿名性が気になる。
というわけでブログ開設してみた。表示確認も兼ねてまずひとつ。

生まれも育ちもずっと東北。結婚して仕事をやめてもうすぐ3年になります。
つらつら考えたことをためこんでいるとすっきりしないし、ふとしたときにワーッとしゃべって後悔する、みたいなことを避けたい。整理してアウトプットできるようにしときたい。

あまり頻度は高くないと思うけど。使い方もよくわかってないけど。